戦争が起きて自分の思想にアップデートがあったのでメモ
(啓蒙したいという意思はそこまでなくてどちらかというと今後の人生や創作に生かせればなという感じですので、強烈な批判は勘弁していただきたいです)
基本的にすべて思っているだけなので(確実な根拠はないので)「と思う」や「はず」をかなり省略している
概要
元々自分はかなり個人主義寄りの人間だったが、戦争が起きて体制も大事なのではと考え始めてそういう意見を調べるようになった
「楽しく生きるべき」という(ありふれた)倫理観を軸にどうするべきなのか考え始めた
個人・体制の定義(と利点・欠点)
まず、主張の明確化のために個人と体制の考え方の定義を明らかにする
ここでは体制主義とは組織を結成してリーダーをはじめとして個々の役割を決めておく方式を重んじる考え方で、個人主義とはそれを現状より弱めるべきとする考え方とする
(体制は自分にはあまり関係がないとして無視する考え方も個人主義だとは思うが、さすがにこれはどうかと思うので今回は個人主義から省く)
関連するラベルについての認識は、行き過ぎた体制主義が権威主義や独裁で、リベラリズムは個人主義寄りの考え方だと認識している(間違っているかもしれないがもしそうだとしても今回特に問題はないはず)
その上で、どちらにもメリットとデメリットがたくさんある
体制の利点としては物事の進みが早いことが大きい
リーダーや役割を決めてそれにみんなでついていくという方式は、全員が対等に意見を言い合うより合意形成は早い
生命には死という時間制限があるので、もちろんすべての意見を聞くことはなかなかできないという前提のもとでは、ある程度意見をフィルタリングすることも重要であり、体制はそれに向いている
また、共通の物語によって体制が成り立っている場合が多いが、物語も合意形成の際に時間の節約の効果がある
物語とは『サピエンス全史』でいう認知革命を経て習得している(おそらく)人間特有の能力によって成り立っているものある
聖書を軸として結成している宗教などが顕著だが、国家に関しても物語を共有しているから成り立っている部分がある
国の歴史や宗教を信じているからこそ素早く結束できたりする側面がある
一方で、体制の欠点としては脆いことなどがある
一番大きな弱点としてはリーダーが不在になると一気に瓦解しやすい
また、リーダーや役割を決める際の合意形成の手段に納得していない人がいると瓦解しやすい
個人主義のメリットとしては、それに比べて瓦解するものがないのである意味安定している
個人主義の欠点は体制に比べて合意形成に時間がかかることである
体制では時間の節約のために省いているプロセスにまともにとりかかったりしようとすることがある
一方で、無限に時間があったり思考速度が無限に早い場合はそうしない手は無い
すべての人間のすべての意見を聞いて物事を決定する方がより多くの人が納得する結果になりやすい
現実にはそれはできないが、個人主義に基づいて他人と協力して物事を進める場合はできるだけ大まかにはそういう方針である
(もしくは、そういった意思決定は自分には関係がないと考えるという方針になるが、前述のとおりこれは省いている)
また一方で、体制では意見を聞いてすらもらえなかったり思想が違ったりすると(特に自分のように命令されるのが苦手だったりすると)不幸になる(「楽しく生きる」が達成できない)人が存在するが、個人主義ではそれが軽減される
もちろん死という時間制限があるので確実に意見が聞いてもらえるわけではないがそのチャンスが増える
リベラリズムが個人主義寄りの考え方であると認識する通り、他にもいろいろ自由なのがメリットである
とはいえ、脅威となる体制がある状態で合意形成でモタモタしていると生存が脅かされる局面もあるので、この場合は「楽しく生きるべき」の「生きる」が達成できなくなってしまうという側面もある
「楽しく生きるべき」という倫理
今回軸とした「楽しく生きるべき」について掘り下げる
これに関しては何か特定のコンテキストがない限りは納得する人が多いはずで、自分もそう思っている
「楽しい」とは何かを考えた
結論として「楽しい」というのはかなり原始的な感情であると考えざるを得なかった
今生き残っているのが生命で、生命にとって「生きる」ということが最大の報酬になっているはずである
その報酬こそが「楽しい」ではないかと思う
高次の「楽しい」が存在するようにも思えるが、「楽しい」はもとをただすとすべて生存本能であると(悲しいが)考えざるを得ない
マズローの欲求5段階説(自己実現世急>尊厳欲求>社会的欲求>安全欲求>生理的欲求)を見ても、すべて「生きる」(またはそれに寄与できるか)が目標で、それがどれだけ遠くにあるかが違うだけである
なので、「楽しく生きる」の「楽しく」は結局「生きる」が目標の感情なので、「楽しく生きるべき」というよりは「生きる」が正しい気がする
ただこれを前提とすると、例えば漫画を読むのが「楽しい」が強すぎて殺されると分かっている状況でも漫画を読み続けるという人がもしかしたらいるかもしれないが、そういう人は単に論理的にはおかしい(理解できない)または「楽しい」に固執しているということにはなる(自分の場合は直観的にもそう)
またこれを前提とすると、死の制限がなくなった場合そのあとに人間は「楽しい」と思えるのかは少し怪しい
なぜなら死を回避する(生きる)ことを達成するために生まれた感情が「楽しい」なので、不死になれば楽しいを感じる本来の必要性はなくなる
誰が「生きる」べきか
上記で「生きる」、またはそれに寄与できるかが目標と記述しているが、このどこに寄与するか対象は個または体制のグラデーションがある
前提として、体制のために死を選ぶ個が存在する
例えば、日本人なら特攻隊だが、アリや蜂も巣を守るために個が自ら犠牲になることがある
個と体制の優先順位は個や体制(人間以外を含めると種)によって別れる
種によって完全に別れているのであれば遺伝的な生存アルゴリズム、個や体制によって分かれている場合は思想や経験(報酬の履歴)などによって自分(個)が生き残るべきか自分の属する体制が生き残るべきかに別れる
そして、グラデーションと記述した通りどれだけ大きな体制(家族なのか、会社なのか、国家なのか)が大切かも人それぞれである
つまり、「生きる」より「(個人または体制が)生きる」の方が正しい
個人と体制のどちらを優先するべきか
上記でこれは(人間を前提とすると)個人や体制によって異なると記述したが、どちらを優先するべきかは自由であるべき
個人にしても集団にしてもどうすれば生き残れるかは結果を見ないと分からないからである
トロッコ問題に結論が出せないのもやはりそれにつながると考えられる(これには「(個または体制が)生きる」というコンテキストは無いが)
つまり、個人、家族、会社、国家などのグラデーションの間でどこが「生きる」上で大切かはなかなか分からないし、分からないのであれば強制するべきではないと思う
最後に
自分は「生きる」という倫理観において、この先個人と体制のグラデーションの間で思想が揺れ動くのだろう
完全な個ではもう人間はなかなか生き残れないかもしれないし、そうでもないかもしれない
国家がないほうが良いかもしれないし、そうでもないかもしれない
その確からしさは技術や情勢によって刻々と変化するので生存戦略において、発信者の権威にかかわらず確からしい情報を見極めることは自分の倫理にも関係してくるので物騒な時代にはより一層大切になりそう
また、平和になり不死になればそれはそれで「楽しい」についてまた考える必要がありそう
あと、創作に生かせればと注意書きしたが作品を通してこういった思想を強制するようなことは嫌いなのでそれには注意したい